
第70回『マイ・コレクション/ 絵ハガキ その1〜珍しい作家編 ②〜』
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早くも2月がやってきました。
今年もこんな風に1年があっと言う間に過ぎ去っていくのでしょうか。
私のブログがそんな慌ただしい流れに掉さす役割を果たしてくれたらいいのですが。
「マイ・コレクション」のテーマの元、
皆さんが少し立ち止まって考えられるような場にできたらと思っています。
今回も魅力的なラインナップを揃えましたので、楽しんでいただけたら幸いです。
珍しい作家編の2回目です。
最初に取り上げるのはアール・ヌーヴォーのデザイナー、
ウジェーヌ・グラッセ(1845~1917年:スイス)です。
アール・ヌーヴォーと言えば、真っ先に思い浮かぶのはミュシャでしょう。
私もミュシャのファンですから絵ハガキもたくさん集めています。
しかしミュシャは「珍しい作家」ではありませんから外します。
そこでミュシャの先輩格のグラッセの登場です。
グラッセはミュシャよりも15歳年上で、その位置付けはアール・ヌーヴォーの先駆者です。
ポスターの世界でもグラッセはミュシャに先駆けて、いくつかの印象的な作品を残しています。
ただミュシャほど華麗ではなく、表現にも硬さが見られますが、
分かりやすい構成と堅実な人物描写が魅力です。
そんなグラッセの良さが大いに発揮されたのが、『月歴画』のシリーズです。
『月歴画』とはカレンダーの絵のことで、
12か月の自然の変化とそれに伴う人々の生活を描き分けるものです。
このような表現は日本では江戸琳派の酒井抱一が得意としましたが、
アール・ヌーヴォーには日本美術の精神と造形が流れ込んでいますから、
グラッセの『月歴画』にもその影響があるのかもしれません。
ただし自然の変化がテーマでも、西洋美術は人間中心主義ですから、やはり主役は人間が張ります。
グラッセの場合も美しい女庭師がどの絵にも登場します。
そして女性と自然がシンクロする世界こそがアール・ヌーヴォーなのです。
この絵ハガキは東京で開かれた『ミュシャ展』のグッズ売り場で見つけました。
いわゆる『ミュシャ展』の関連商品ですが、思いがけず入手できるのでお得感があります。
当然12枚すべてを購入しました。
今回はその中から5枚を紹介します。
1枚目は《2月》です。(写真1)
春の訪れが近づくこの時期、暖かそうな衣装を身につけた女性が庭木の剪定を行っています。
花芽を残して、たくさんの花を咲かせようとしているのです。
傍の脚立は高い枝の剪定に使うのでしょう。
画面手前には大きく開いた水仙の花が描かれています。
女性のスカートの色に春の気配が感じられます。
右下の囲みの空白にはカレンダーが入ります。
2枚目は《4月》です。(写真2)
この絵には春の本格的な訪れが描かれています。
雪解けで水かさが増した小川が流れ、満開の桜が春を謳歌しています。
ボッティチェリの《春》に登場する春の女神フローラに似た女庭師は
牡牛座のマークの入ったドレスを身にまとい、両手に摘んだばかりの花を携えています。
野に咲く黄色い花はクロッカスのようです。
3枚目は《6月》です。(写真3)
日本の6月は梅雨のシーズンですが、
ヨーロッパでは天気の良い日が続くレジャー・シーズンです。
グラッセの絵でも明るい陽光に照らされた初夏の景色が描かれています。
積雲が空に張り出し、半袖姿の女庭師は大輪のバラを収穫しているところです。
画面左奥にはたわわに実を付けたサクランボの木も見えます。
全体に若々しい緑が画面を占め、活気のある空気感が漂っています。
4枚目は《10月》です。(写真4)
季節は秋を迎え、景色は紅葉に彩られています。
ヨーロッパの秋は日本よりも少し早めに訪れます。
女庭師は熊手を使って銀杏の落ち葉集めにいそしんでいます。
女庭師の手前に咲く青い花はヤグルマギクでしょうか。
黄色が主調色の画面に補色の効果を添えています。
5枚目は《12月》です。(写真5)
辺りはすっかり雪景色で女庭師も防寒用のフード付きマントを羽織っています。
このマントの黒が画面を引き締め、雪の白とのコントラストで冬の季節の緊張感を出しています。
両手で抱えているのは白い実を付けた珍しい縁起物植物の万両でしょうか。
画面手前の大きな花はクリスマス・ローズですが、
この花の配置によって画面に遠近感が生まれています。
ちなみに植物には詳しくないので、名前が間違っているところがあるかもしれません。
ご了解下さい。
二人目の作家はアール・デコを代表するデザイナー、カッサンドル(1901~68年:フランス)です。
カッサンドルの名前が日本でどの程度浸透しているのかはよく分かりませんが、
身近にある彼のデザインとして、イヴ・サン・ローランのロゴマークを紹介しておきます。(写真6)
男性用靴下などにも付いていますから、一度は見たことがあるのではないでしょうか。
グラッセが豊かな自然と人間との共存を装飾的に謳い上げたとすれば、
カッサンドルは機械文明の圧倒的な勝利を高らかに宣言しています。
彼の創った鉄道や豪華客船のポスターは多くの人々の夢を乗せ、
まさに『ポスターの英雄の時代」の象徴となったのです。
時は1920~30年代、二つの世界大戦に挟まれた束の間の平和の時代でした。
それは機械文明が多くの人々に支持された最も幸福な時代だったと言えるかもしれません。
その後ポスターが戦争のプロパガンダに使われ、
機械も殺戮兵器に変貌するという不幸な時代の到来を思う時、
カッサンドルのポスターはより力強い輝きを放つように思われます。
私がコレクションしたカッサンドルの絵ハガキは24枚。
主なものは日本で開かれた『カッサンドル展』で入手したものです。
合わせて購入した展覧会図録は私の宝物です。
またLAFAという出版社から翻訳版の『カッサンドル』という立派な画集も出ています。
1枚目は一見分かりにくいポスター《ラントラン》です。(写真7)
電信線が男の耳に集中し、男は何かを叫んでいます。
これは電信線によって伝えられたニュースが人間に衝撃を与える瞬間を描いたポスターなのです。
「ラントラン」は当時の人気夕刊紙の名称。
報道の本質をこれほどストレートに表した作品を私は知りません。
対象を徹底的に単純化し、
黒い背景に浮かび上がらせる手法はアール・ヌーヴォーの装飾的表現とは対照的で、
私は写楽の黒雲母摺り(くろきらずり)の役者絵を思い浮かべます。
2枚目はお馴染みの鉄道ポスター《北極星号》です。(写真8)
ただし列車は描かれず、線路のみが俯瞰した線遠近法で強調され、
地平線には北極星が大きく輝いています。
カッサンドルはぼかしの技法をよく使いますが、それはエアブラシではなく、
古典的なスパッタリングの技法によるものです。
スパッタリングは私が中学校で教えていた時に実習を行って、
生徒にしっかり身につけさせたモダンテクニックのひとつです。
スパッタリングの効果はぼかしから生まれるロマンティックな雰囲気です。
線遠近法の無限感とスパッタリングの抒情が噛み合って、夢へと誘う空間が出現したのです。
列車を描かずに旅情を掻き立てる優れた1枚となっています。
3枚目も鉄道のポスター《北方急行》です。(写真9)
今度は視点の極端に低い線遠近法で列車と電信線が描かれています。
列車は単純化され、鉄でできた力強さが強調されています。
スパッタリングによるぼかしの効果で、金属の輝きが伝わってきますが、
その視覚的効果と共に聴覚的効果もあり、激走する列車の走行音まで聞こえてくるようです。
カッサンドルのポスターは抽象化されていますが、物語性が豊かで、見る者の想像力を刺激します。
ここにカッサンドルのポスターの独自性と大衆性が見て取れます。
4枚目は豪華客船のポスター《ニューステイテンダム号》です。(写真10)
これは大胆なトリミングの手法が持ち入れられているので、豪華客船の全貌は見えません。
描かれているのは甲板にある空気取り入れ口と巨大な3本の煙突です。
煙突から吐き出される煙が後ろにたなびいているので、海上を走行中と思われます。
巨大な空気取り入れ口と合わせて、画面の主役は甲板上の空気の流れなのかもしれません。
というのもそれを感じることこそが豪華客船での旅の醍醐味だからです。
無機質な金属の建造物から旅に誘うロマンが生まれるという意外性がカッサンドル・マジックでしょう。
5枚目は豪華客船の真打登場の感のある《ノルマンディー号》です。(写真11)
真正面から仰角で豪華客船を捉え、シンメトリーの構図でその雄姿を威風堂々と表しています。
作者の目の高さは水平線上にあり、船体の下部には海鳥の群れが描かれていて、
船の巨大さが強調されています。
ゆっくりとノルマンディー号がこちらに向かって進んでくるようです。
制作年は1935年、
ヨーロッパの政治情勢がナチスの台頭によって少しずつ不穏なものに変わっていく頃でした。
三人目の作家はドイツ系アメリカ人の画家ライオネル・ファイニンガ—(1871~1956年)です。
ファイニンガ―は私にとって極めて重要な画家の一人です。
高校の時の『美術』の教科書に載っていた3点の絵に私は魅了され、
自分が描くべき絵の方向性を発見したのですが、
1点目はフリードリヒの《山上の十字架》、
2点目はキリコの《詩人の不安》、
そして3点目がファイニンガ―の《塔と人》でした。
いずれの絵も私の想像力をいたく刺激し、
自分もこんな絵を描いてみたいという強い衝動に駆られたのでした。
しかし当時はこの画家たちの資料が少なく、
とりわけドイツ系のフリードリヒとファイニンガ―の資料集めには苦労しました。
そんな中、24歳の時の2度目の海外旅行でベルギーを訪ねた時に、
ブリュッセルの街角の土産物店でたくさんのファイニンガ―の絵ハガキを偶然発見したのです。
その時の感激は忘れません。
とりあえず買えるだけ買って、
マドリッド行きの飛行機の中で楽しもうとバッゲージではなく、
機内に持ち込める手荷物のバッグに入れておくことにしました。
移動の機中で十分楽しんだ後、マドリッドの空港に着いたのですが、
空港を出て市中へ向かうバス乗り場を探していた時に窃盗グループの罠にはまり、
手荷物のバッグを盗られてしまいました。
バッグにはカメラやマドリッドからの航空券も入っていたのですが、
盗られて一番悔しかったのはベルギーで撮った写真フィルムとファイニンガ―の絵ハガキでした。
幸い保険に入っていたので、盗られた分の金額は後で戻ってきましたが、
フィルムと絵ハガキが戻ってくることはありません。
海外旅行での失敗はいくつもありますが、これは悔しい思い出として後を引きました。
この経験が癒されるのは17年後の1993年のことです。
公立中学校時代の教え子の招きでドイツ旅行が実現したのですが、
その時に訪れたハンブルグの街角でファイニンガ―の絵ハガキを再び発見したのです。
何か自分の人生の中で欠落していた部分が埋められたような気分になったものです。
マドリッドで失われたもののすべてが補われたかどうかは分かりませんが、
かなりの数の絵ハガキを買うことができました。
その結果ファイニンガ―の絵ハガキは現在36枚あります。
その中の1枚目は1924年作の《青い海》です。(写真12)
ファイニンガ―は横長の画面を得意にしていますが、この絵でも水平線が強調されています。
風景や人物を直線的に単純化する手法はキュビスムと似ていますが、
グラデーションを使ってロマンティックな抒情実を出しているところが全く異なります。
言わばファイニンガ―は純粋造形の作家ではないのです。
このような一つの主義に収まりきらない作家は美術史家に敬遠されがちです。
分類しづらいためです。
しかし美術史の流れに沿わない作家は実は大勢いるのです。
作家個人は美術史を意識して制作しているわけではないからです。
私は抽象的な造形の中にロマンティックな雰囲気を湛えた
ファイニンガ―のような作家は貴重だと思います。
2枚目は1923年の作《海にかかる雲Ⅱ》です。(写真13)
この絵も広大な海辺の空間が極限まで単純化され、
宇宙の広さと深さ、そしてそれとは対照的に人間存在の微細さが強調されています。
しかし孤独感よりは広い時空に包まれる心地良さが感じられるのは、
空の温かい黄色と二人の人間が恋人同士に見えるせいかもしれません。
おそらくこの絵はフリードリヒの《海辺の僧侶》から生まれたものだと思いますが、
《海辺の僧侶》の絶望的な孤独感とは対極的な世界を提示したところに、
ファイニンガ―の個性があるのだと思います。
3枚目は1927年作の《海辺の夕暮れ》です。(写真14)
この絵は広島県立美術館の所蔵です。
日本にもファイニンガ―の良い絵があることは嬉しい限りです。
皆さんもいつか実物を見に行ってください。
この絵もフリードリヒの《海辺の僧侶》に触発された1枚でしょう。
色調はより《海辺の僧侶》に近くなっています。
異なるのは月の存在で、月の輝きが画面全体を希望に満ちたものに変えています。
空の平面分割も絶妙で空間に奥行きを与え、
その中で海辺に散在する人物たちは静かに月を眺めているようです。
4枚目は1926年作の《ゲルメローダⅨ》です。(写真15)
ゲルメローダはドイツの町の名前で、ファイニンガ―はその街の教会をシリーズで描いています。
縦長の画面の中にゲルメローダのシンボルであるゴシック教会の尖塔が強調され、
海辺の情景に比べ緊張感のある空間が演出されています。
直線で分割された空にはプリズムのような光が満ち、下部の街並みの暗さと対照を成しています。
全体に厳かな雰囲気が漂い、
画面最下部の教会の入口付近には僧侶のような人の群れが佇んでいます。
5枚目はメトロポリタン美術館が所蔵する《ゲルメローダⅩⅢ》です。(写真16)
1936年制作のこの絵は2008年の日本での展覧会にも来日しました。
シリーズ最終作となる本作はより教会の尖塔に焦点が当たり、
尖塔の下の窓も描かれていて、教会に生命感を与えています。
空間の分割線は斜めが多く、画面に動きと緊張感を生み出しています。
構成はより抽象度を増しましたが、
画面には神秘的な雰囲気が宿っています。
このようにファイニンガ―の絵画世界は常に抽象と幻想の狭間を漂いながら、
私たちを不思議な感覚に誘い込むのです。
4人目の作家はオプティカル・アートの第一人者
ヴィクトル・ヴァザルリー(1906~97年:フランス)です。
オプティカル・アートは1960年代後半にアメリカで流行した抽象美術の一形態で、
目に対する強い刺激を意図した造形が特徴です。
ヴァザルリーの場合にはそこに錯視的効果が加わり、
見かけ上の凹凸が反転するだまし絵的要素が特徴です。
言わば「抽象美術のエッシャー」といった趣があります。
抽象美術ですが造形の基本は古典的な線遠近法にあり、
二次元の平面の中で三次元的なイリュージョンを追求しています。
この辺りの矛盾を抱えた両義性が魅力で、視覚的刺激が知的な興味をそそるのです。
抽象表現主義の物質性を露わにした激しい表現に比べ、
スーパーフラットな画面には技術的痕跡がなく、機械で作ったようなクールさがあります。
そこで生きてくるのがグラデーションの効果で、
ヴァザルリーの作品に共通する透明な光と不思議な幻想性の源になっています。
それは今回取り上げたカッサンドルやファイニンガ—などにも共通するところかもしれません。
ヴァザルリーの絵と出会ったのは30代前半の頃で、
やはり『中学校・美術』の教科書作りをやっていた時によく教科書に取り上げられていたからです。
絵ハガキは大手書店や街の画材屋などの絵ハガキスタンドで見つけたものがほとんどで、
現在までに47枚を収集しました。
その中から選りすぐりの5枚を紹介します。
1枚目は《DIAM-CIS》と題された1968年の作品です。(写真17)
中央の二つの立方体から左右に凹凸を反転させながら立方体が連なっていきます。
ひとつの面を常にふたつの立方体が共有しているので、
まさにめくるめく空間が展開されていますが、
全体は変形六角形の平面に収まっているから不思議です。
色調は左の緑から青、紫を経て右側では赤に変わっていますが、
この4色がそれぞれグラデーションして明度が変化していますから、
幾何形体にも関わらず生命感が感じられるのです。
2枚目は《QUASAR-ZETT》という1966~72年の作品です。(写真18)
正方形の画面が4分割され、それらを背景にして中央にもうひとつの正方形が出現しています。
この正方形は背景から浮き出るような立体感を持っています。
この部分だけ単位となっている正方形が線遠近法で描かれているからです。
さらに単位となっている正方形は色調が微妙にグラデーションしているので、
より立体感のイリュージョンが強まっています。
紫と黄緑の色調は補色関係にあり、画面にコントラストと反転の効果を与えています。
各正方形の隙間は黒で埋められていますが、中央では十字星の形となって、
画面を引き締めると同時に神秘的な雰囲気も漂わせています。
3枚目は《FENY》という1973年の作品です。(写真19)
これは正方形の画面の中に前に突出する二つの球体と
奥に後退する二つの凹みが組み合わさった構成です。
実際の画面はまったくの平面ですが、ヴァザルリーの巧みな表現によって、
眼前に歪んだ空間が出現したような錯覚に陥ります。
とりわけ凹んで見える空間が二つの球体をより突出しているように見せています。
球体の中の単位となっている円形の色も、二つの球体の間で反転するなど、
どこまでも完璧な計算を感じさせます。
4枚目は《VEGAーZETTー2》という1971年の作品です。(写真20)
これは正方形の画面の中に突出するひとつの球体を描いています。
全体の色調が黄金色に感じられるので、
神秘的な雰囲気と共に古典絵画のような風格も備えています。
ポイントは立方体の中の単位となっている円の色調で、
明暗を微妙にグラデーションさせているので、
立体感と共に黄金の輝きが出現しているのです。
また正方形と球体の組み合わせにもかかわらず、
画面に生命感や躍動感が宿っているのも、グラデーションの効果です。
背景と球体の境目の色彩処理も注目ポイントです。
5枚目は《KOSKA-REV》という1972年の作品です。(写真21)
この作品の構成はとりわけ凝っています。
正方形の画面の中にもうひとつの正方形が前面に突出しています。
よく見ると上半分の単位は円で下半分の単位は正方形です。
さらにその半分が左右で分割され明暗の変化がつけられています。
各単位の形と色の変化は絶妙で、画面に完璧な錯視空間を出現させています。
ヴァザルリーはこれをすべて手作業で行っているので、
私は彼に「ヴァザルリーは20世紀抽象画のヤン・ヴァン・エイクである」
という賛辞を贈りたいと思います。
二人に共通するのは描画技術の完璧なコントロールです。
現在では彼の功績が忘れかけられているように私は危惧するので、
再評価を促していきたいと思いますが、皆さんはどう思われますか。